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ホーム旅行記>前編 チャン族(中国旅行2003-2004)

中国旅行 2003-2004

前編 チャン族 <2003年12月27日〜12月30日:広州→成都→桃坪村>

チベット高原の東、四川省西部の山岳地帯にチャン族と呼ばれる民族が居住している。チャン族は「羌」(チャン) という名称で知られる北方の古代民族の末裔であると考えられている。かつては中国西部や北部を中心に広く活動したというが、 数千年を経た現在は、「羌」の名称を持つ民族集団は四川省北部岷江上流域に約20万人のチャン族が存在するに過ぎない。

古代民族「羌」が移動した大河の「道」には、現在も所々に高さ20〜50メートルの巨大な石の塔が聳えている・・・ 

〜 『チャン族と四川チベット族』(松岡正子著)等より要約 〜

<広州>成都桃坪村

前回の旅行で成都に滞在していたとき、成都から先のルートをどうしようかということに頭を悩ませていた。 1つは東に針路をとり西安に抜けるルート、もう一つは北に針路をとり蘭州に抜けるルートだ。 西安の北の陜西省北部にどうしても行きたかった僕は、結局、羅城、肖溪を経由し、西安に抜ける東のルートを選択した。

しかしこの時行き残した北のルートにはかなりの未練があった。なぜならこのルート沿いにはチャン族と呼ばれる民族が居住する エリアがあったからだ。この時はまだチャン族の事はほとんど知らなかったが、ただ彼らがチベット族によく似た住居に住み、 村の中に巨大な石塔を持っているというぐらいの知識は、旅の途中で立ち寄った図書館で仕入れていた。 図書館で偶然見つけた分厚い本に描かれた、チャン族の集落の克明なスケッチは圧倒的な存在感を持って迫ってきた。 当時の旅のメモ帳には、どこに行けばこの本に載っているようなチャン族の集落が見られるのかという、 チャン族の集落マップが描き込まれている。

いつかきっと訪れたいと思っていた。

暦の都合から今年の年末年始の休暇が9日間になるということが分かった時から、僕の旅はもう始まっていたのかもしれない。 休みの日程を社長から聞かされたとき、頭の端に真っ先によぎったのが、このチャン族の集落のことだった。 僕の心の中では一気にテンションが上がり、その次の週末にはもう旅行会社に電話を入れていた。

出発の日の朝、部屋の窓を開けると雪がうっすらと積もっていた。見上げると青い空が広がっている。 気にしていた天候はどうやら問題なさそうだった。フライトは昼の2時過ぎだが、あまりに成田空港が遠いため、 出発は朝の9時過ぎである。いつも乗り慣れている小田急線の風景だが、旅行直前に見るとまた少し違った風景に見えてくるから不思議だ。 太陽の光を受けてキラキラと輝く川の水面や、雪のうっすらと積もった屋根の連なりが美しく見えた。 もうすっかり旅モードに入ってしまっている自分がおかしかった。

飛行機の予約がとりにくくなる時期の事で、あいにく希望する成田→成都の直行便のチケットがどうしてもとれず、 広州経由で成都に飛ぶチケットをかろうじて押さえることが出来た。さすがに成田空港は出国を待つ人であふれていた。 この分ならきっと広州行きの飛行機も満員なのだろうと思っていると、実に半分も埋まらないほどガラガラにすいているのには拍子抜けがした。

2時20分、飛行機は定刻通りに出発。飛行機は名古屋、大阪等の主要都市の上空を抜けるルートを飛ぶようだ。 よく晴れ渡った空の上から江ノ島の姿がはっきりと確認できた。中国の時間でちょうど4時ごろ、上海付近の上空に到着した。 海上はどこまでも雲に覆われていたが、ちょうど陸にさしかかる辺りで見事に雲が無くなり、中国の海岸線をのぞむことが出来た。 蘇州周辺では、うっすらと夕陽を受けて輝く何本もの運河らしき光の筋が見られた。成田を飛び立って4時間、 市街地すれすれをすべり込むように、ほぼ定刻通りに広州の白雲空港に到着した。実に安定したフライトだった。

入国の手続きと両替を済ませ、さて市内までどうやって出ようかと考えていたときに日本人の男性に声をかけられた。 市内に出るなら一緒に出ませんかということなので、タクシーを拾って広州駅前にあるユースホステルに向かった。

彼(Iさん)も僕と同じく、会社の休みを利用して旅に出てきたサラリーマンだ。Iさんから昨日のニュースで 広州でSARSの新たな感染者が見つかったことを知らされ、もしかしたら今日の飛行機の乗客の少なさの原因はその辺りに あるのかもしれないと思いあたった。

ユースホステルでは早速中国らしい小姐(シャオジェと読む)に出会うことが出来た。 僕らの前にもたもたした外国人が、向こう気の強い小姐を前にチェックインの手続きに悪戦苦闘していたせいもあるが、 まともに中国語も話せない僕らもなかなかまともに相手にしてもらえず、下手な中国語や筆談、英語を交えてようやく こちらの意図を伝えることが出来た。Iさんはシングル、僕はドミトリーに泊まろうと思っていたのだが、 シングルが無いということなので、130元(1950円)の双人房(ツイン)を2人でシェアすることにした。

上海の南京路のような繁華街がここ広州にもあり、その北京路と呼ばれる通りをぶらつきながらIさんと一緒に食堂を探すことにした。 ここはどうやら広州の中心的なショッピングエリアで、大きなデパートや服飾店、宝石店などがネオンもきらびやかに並んでいる。 しかし食事をするところは以外に少なく、Iさんのリクエストである飲茶が食べられるような食堂はなかなか見つからなかった。 街をぶらぶらと歩くのは楽しいので、いくら歩いても苦にはならないが、時刻はすでに9時近くになっており、 そうのんびりもしていられない。

結局彼の持っていた「歩き方」に載っていた店までタクシーで行くことにした。その店は上下九路という通りにあった。 この上下九路というのは、昔からの繁華街で、賑やかではあるが北京路のようなうわついた感じはなく、 古い感じの町並みの雰囲気の良い街路だった。

目当ての店でビールやシュウマイ、蒸し餃子、水餃子等を食べた後、宿に戻り部屋でくつろぎながらテレビを見ていると、 どうやらSARSのニュースをやっているようである。今まさにその問題の広州にいると思うと、 どこか居心地が悪く日本の両親や知人の心配する顔が頭にちらついた。

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広州<成都>桃坪村

朝5時50分、モーニングコールよりも早く目が覚めた。初日の興奮があったのだろう、昨夜は眠れたような、 眠れなかったようなまんじりともしない一夜だった。同室のIさんを起こさないように、そっと部屋を出て宿を後にした。

朝早いので空港まではタクシーで向かった。空港ではチェックインカウンターエリアに行く前にサーモセンサーのようなもので、 自動的に乗客の体温を測っていた。後ろから見ていると、テレビで見たようなモニターがあり、 そこに通過した人の体温がCG的に表示されるようになっている。

そろそろ夜が明ける。空港の待合室の窓からは、朝もやの中にオレンジ色のでっかい朝陽がのぼってくるのが見える。 朝もやの中に浮かび上がるクレーンやビル群の姿は、まるで現代版の水墨画のようだった。

成都行きの乗客はざっと見渡しても30人ぐらいしかいないのでずいぶん少ないと思っていると、 乗り込んだ機内にはすでにたくさんの人が乗っていた。おそらく他都市からの乗り継ぎだろうが一体何時にどこから飛んできたんだ? 飛行機は両側3列ずつの小型の飛行機だった。乗り込むと程なくして離陸の体勢に入り、 広州の空港を離陸した飛行機はすべるように高度を上げていった。成田→広州と同じく驚くほど安定した飛行だ。 中国人は飛行機の操縦が上手いのか、それとも気流が安定しているのか。

乗客の中に日本人はどうやら僕一人のようである。前方を見渡すと、さすがに中国だけあって角刈りの頭が多いのがよく分かる。 広州から成都までのフライトは約2時間。全行程のほとんどが厚い雲の上であり、成都もまた一面暑い雲に覆われ、 もうこのまま一生晴れないのではないかと思うほど、どんよりと薄暗かった。

交通飯店 交通飯店

成都では有名な交通飯店に滞在することにする。交通飯店は外国人旅行者が多いので、相変わらず話が早い。 あっけないほど簡単にチェックインが終わり、部屋に行ってみるといかにも旅が長そうな、 そして旅に疲れていそうな感じの日本人の男性が朝っぱらからベッドに寝ころんでテレビを見ていた。 一応あいさつは交わしたが、ほぼ無関心の状態だったので、ほとんどそれ以上の会話もせずに部屋に荷物を置き、外に出かけた。

今日は予定では成都は素通りして理県という町まで行く予定だったが、変更して成都に滞在することにした。 一つは成都を離れる前にチケットのリコンファーム(予約再確認)を済ませておきたかったことと、 もう一つは少し成都でチャン族の情報を集めておきたかったというのがある。旅の期間が短いと、 長旅の頃には気にしなくても良かったことでも、いろいろと気を付けなければいけないことが出てくる。 旅の日程などはその最たるもので、どうしても帰りの飛行機にだけは確実に乗れるようにしておかなくてはいけない。 それでもリコンファームさえ済ませば後の日程はどうにでもなるのが、気ままなひとり旅のいいところではあるが。

僕は旅先で訪れた大きな町では、必ず本屋に立ち寄ることにしている。そこでは日本では手に入らないような、 中国の伝統的な民家や少数民族の集落などに関する本がいろいろと置いてある。それもその地域にしかおいていないような本も 必ず一冊や二冊は置いてある。こういう本を探して情報を仕入れるのが楽しくて仕方ないのだ。時にはその本を購入して、 それをガイドブックがわりに、後は地元の人に聞いてまわったりして、めぼしい村を探したりする。  成都にもいくつか大きい本屋があるので、今日はぶらぶらしながら、それらの本屋を訪ねてまわろうと思う。

天府広場近くの賑やかな商店街 天府広場近くの賑やかな商店街

宿を出て少し歩くと、以前歩いたときの記憶がすぐによみがえってくる。成都は広州とは違い、 中心部だけならなんとか歩いてぶらぶらと過ごせる大きさの街である。街のど真ん中には天府広場と呼ばれるかなりの広さの広場があり、 そこではたくさんの中国人が思い思いにくつろいだり、はしゃぎまわったりしている。カメラをぶら下げ、 写真のサンプルを持ちながら客引きをしている写真屋さんもたくさんいるので、地方からのお上りさんも多いのだろう。 あちこちで天府広場周辺の近代的なビルや、巨大な毛沢東像をバックに写真を撮ってもらっている人達の姿が見られた。

天府広場周辺にはいくつかの本屋が集まっていて、そこで目当てのチャン族の建築本を探して見たが、 店の人によると「現在没有」(品切れ)とのことだった。僕が日本人で、チャン族の伝統的な住居に関する本を探しているとわかると、 店のおばちゃんはとてもフレンドリーになり、いろいろ中国の集落や、伝統的な住居に関する書籍を出してきてくれた。 チャン族の本は見つからなかったが、そのかわり中国全土の集落建築を集めた本があったので、少々値がはったが、購入することにした。 いくつか本屋を探してみたが、結局探していた本は見つからずあきらめることにした。

まだ時間があったので、明日のバスの時間と、バスターミナルの場所を調べようと思い、西門汽車站(バスターミナル)へむかった。 成都から西方面のアバと呼ばれる地方へのバスは、この西門汽車站から出ているからだ。

路線バスに乗って「西門汽車站」というバス停で降りてバスターミナルを探してみるが、 いくら探してもそれらしいものが見つからない。おかしいと思いバス停の前の串焼き屋台のお兄さんに「西門汽車站はどこですか?」 と聞いてみるが、「現在没有。坐4路」(今はもうないよ。4路のバスに乗れ)と言われた。また「没有」である。 本がないのは分かるが、バスターミナルがないというのは一体どういう事なんだ??念のため「ウェンチュアンに行きたい」と言うと、 やはり4路に乗れという。バス停に設置されている4路の路線図を見てみると、その終点に「茶店子客運站」 (これもまたバスターミナルをあらわす)というバスターミナルがあることが分かった。 ああ、もしかしてこのバスターミナルまで行けということなのだろうか。何となく事情が分かったような気がする。

翌日も昨日と同じマーケットの麺の店で朝食を食べた。昨日のパクチー嫌いの日本人だと憶えてくれていたみたいで、 笑って迎えてくれた。今日はおばさんが作る前にちゃんと「パクチーはいらないから」と念を押しておいた。 パクチーの入らない麺はやはり美味しい。最初は出されたままの味で食べていたが、馴れてくるとテーブルの上に置いてある 様々な調味料で味付けをするようになり、僕は味の素少々と、しょうゆのような色をした調味料で味付けするのが定番となった。 パンチが欲しいときは、これにさらに唐辛子を少量混ぜるとピリッと味を引き締めてくれる。

バスを待つ間、串焼き屋のお兄さんから串焼きを2本買った。成都の町中ではこの串焼きがあちこちの路上で売っていて、 その匂いと見た目で、強烈にこちらの胃袋を刺激してくる。食べてみたいと思っていたのでちょうどよかった。 1本8角(12円)なので2本で1元6角だが、2元渡すと5角のお釣りをくれた。1角(1.5円)多いというと、 いいからいいからという感じでおまけしてくれた。日本円にするとわずかに1.5円の話だが、その価値以上にうれしい1角だった。 串焼きは大量に唐辛子をまぶしてある激辛のものだったが、想像通りとてもおいしかった。

4路のバスで茶店子客運站に行くと立派なバスターミナルがあった。中に入って時刻表を確認すると確かに「ウェンチュアン」や 「理県」「馬爾康(マルカム)」へのバスが出ている。とりあえずバスの料金と発車時間を控えてバスターミナルを後にした。 たったこれだけの事にずいぶん時間を費やしてしまったが、あっさりタクシーで来ては得られない充実感があった。 ちなみに茶店子と交通飯店付近は82路のバスがつながっているので、明日はバス一本でバスターミナルまで行けることが分かった。

夕食はせっかく成都にいるんだから、ガイドブックに載っているような有名な店で食べてみようかと思ったが、 少し探している途中でバカらしくなり、やはり自分の足で探すことにした。路地裏で見つけた「雨田飯店」 という名の中国人で賑わう食堂で魚香肉絲と米飯(ごはん)を頼んだ。8.5元(約127円)だが、 一人で食べるには多すぎる量が出てきたが、おいしいので全部一人で平らげてしまった。路地裏に面した食堂は一人でも入りやすく、 従業員も元気でとても雰囲気が良かった。「雨田飯店」という地味な名前も気に入った。 宿までぶらぶら歩いて帰る途中「珍珠紅茶」を買って飲んだが、思いがけずあたたかったその紅茶が冷えた体にはとても美味しかった。

宿に戻ると同室の彼が自分でインスタントラーメンを作って食べていた。 やはり旅は長いらしく、もう日本を出て10ヶ月以上経つらしい。10ヶ月の間に中国→チベット→ネパール→インド→パキスタン →中国→カイラス→チベットとめぐってきたらしい。10ヶ月の割りには滞在地が少ないのは、1カ所に長期滞在するからということだった。

さすがに交通飯店のシャワーは完璧なホットシャワーだった。幸せなシャワーを浴びた後、部屋でくつろぎながら、 彼と旅の話などをして11時頃には眠りについた。

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広州成都<桃坪村>

朝6:30頃に起床し宿をチェックアウトして昨日探しておいた茶店子客運站へ向かう。 交通飯店周辺にあるはずの82路のバス停がなかなか見つからず、ようやく見つけてバスに乗り、 茶店子についたときにはすでに8:15になっていた。とても同じ市内の移動とは思えない。 ウェンチュアン行きのバスはタイミング良く8:30出発のものがあったので、そのままそのバスに乗り込んだ。

ようやく明るくなりはじめた中をバスは出発した。成都からウェンチュアンへは、途中で都江堰を通過する。 都江堰は有名な観光地なので、成都と都江堰を結ぶバスは多い。表示によるとわずかに33kmの距離だが、 都江堰に着くのに1時間以上かかった。都江堰に着くと、すぐ目の前に山脈が聳えていた。四川盆地が終わり、 ここからチベット高原まで続く山岳地帯に入る。

都江堰からウェンチュアンまでは表示によると89km。成都から都江堰を経て北上するルートは 九寨溝などの有名観光地があるメジャーなルートであるためか、この道路周辺では大規模な開発が行われているようだった。 なかなかその工事区間が終わらないが、まさか89kmずっと続きはしないだろうと思っていたら、 89kmもの間ずっとその不毛な風景を見続けることとなった。

曇っているせいもあるだろうが、成都を離れるにつれて、どんどんと寒さが厳しくなってきた。 ウェンチュアンに着いた頃には、もうフリースだけではきついので、さらに上からウィンドブレーカーを着込んで寒さを しのごうと思ったが、それでもしのぎきれない程の刺すような寒さだった。 腹が減っているのが、さらに寒さを増す原因になっているのだろうと思い、バスターミナル周辺の食堂に入って大好物の キノコと肉の炒め物を食べた。あたたかいご飯が体中に染み渡るようだった。

ウェンチュアンから上孟行きのバスの中 ウェンチュアンから上孟行きのバスの中

今日はウェンチュアンに泊まるべきかどうか迷っていたが、この寒さの中、このまま立ち止まっていたくはなかった。 宿があるかどうかも分からなかったが、僕は目星をつけていた「桃坪」というチャン族の村へその足で直行することにした。 バスターミナルの切符売り場で「桃坪へ行きたい」と言うと少し待たされてから、「上孟行きのバスに乗れ」と言われた。 地図で見てみると確かに上孟へは桃坪を途中で通過するルートを通っている。不安だったので、バスに乗っている人達に 聞いてみるが間違いないようだった。

1:40頃バスはほぼ定刻に出発した。ウェンチュアンから桃坪までは17km(3.5元)の距離だ。 ここからはメジャーなルートをはずれて西へ西へと向かっていく。さすがにこのルートはまだあまり開発が進んでおらず、 ようやくそれらしい雰囲気になってきた。いくつかの集落を過ぎ去り、気がつくと前方に立派な2つの塔のある集落が見えてきた。 2つの塔の悠然とした様子を見ていると、胸が高まり、心臓の鼓動が早くなるのがはっきりと分かる。 もしかしてこれが桃坪村だろうか。前の人に「ここは桃坪か?」と聞いてみると「そうだ桃坪だ」と言って 運転手に声をかけてバスを止めてくれた。桃坪は川をはさんだ向かい側にあり、僕が想像するよりも観光地化が進んでいるようだった。 泊まるところの心配もこれならなさそうだった。

桃坪村への第1歩 桃坪村への第1歩

想像以上に風格のある立派な佇まいの村の様子に圧倒されながら、橋を渡り村へと向かった。 村の中でも手前の方は比較的新しい家が多いようである。塔のある上の方が、古くからある集落の部分なのだろう。 村の中では増築なのか、新築なのか、新しく石を積んでいる作業中の風景が目立った。石造りの美しい家々に感動し、 泊まるところを探しながらも、早速カメラを取り出して写真を撮りだした。

中庭から石塔が2つ見える 中庭から石塔が2つ見える

家の入口 家の入口

いつまでも歩いて上っていても仕方ないので、めぼしいところで泊まれるかどうか聞いてみた。 たまたま聞いてみた家は外見からはよく分からなかったのだが、中に案内されてその大きさに驚いた。 食堂のようなところから案内され、次に壁に写真がたくさん飾られてある部屋に案内されたが、 そこには早稲田大学の人がここに滞在したときの写真が飾られてあった。僕が日本で買ったチャン族の研究本も早稲田の人のものなので、 おそらくその人が訪れたときのものなのだろう。

宿代は3食込みで50元(約750円)だという。少し高いかと思ったが、もうほとんど心は決まっていた。 念のため部屋を見せてもらうためにさらに上階へのぼるともう即決だった。 上にのぼると中庭を囲むような形で部屋がいくつか並んでおり、しかもその中庭からは2つの塔が絶妙の位置に見えるようになっている。 すっかり興奮した僕のボルテージは最高潮に達し、いても立ってもいられなくなり、部屋に荷物を置くと、早速この中庭から見学をはじめた。

真ん中の部屋に泊まった 真ん中の部屋に泊まった

チャン族の住居は基本的に陸屋根になっていて、その陸屋根にはどこからか上れるようになっている。 この中庭を取り囲むように配置されている部屋の上にもはしごで登れるようになっており、その上からは塔や村の下の方が一望できる。

中庭の一方の壁には突き出た棒に大量のトウモロコシが、まるでみの虫のように束になってぶら下がっている。 家によっては屋根の上の周囲をぐるりと囲むようにトウモロコシが美しく積み重ねられており、 これなどはネパールのマルファという村で見かけた、屋根の上に薪をきれいに積み上げる様子にそっくりである。 チャン族の家はうすい石をたくさん積んでつくられているので、その点でもマルファによく似ていると思った。

石塔のある家 石塔のある家

この美しい村の佇まいに打ちのめされている間に、奇跡的に天気が回復し、 一生晴れることはないと思っていた厚い雲の間から光が射し込んできた。傾いた日の柔らかい光を浴びて石でつくられた村中の家や 塔がオレンジ色に輝きはじめた。まるで息を飲むような美しい光景だった。

むずむずとスケッチがしたい衝動にかられたので、椅子をかり、そこでスケッチをはじめることにした。 この村には2泊することに決めたので、村の中を見てまわる時間はまだまだある。

スケッチをするうちに、何やら宿の中が賑やかになってきたと思ったら、どうやらこの宿に中国人の学生らしい団体がやってきたようだ。 この村での静かな滞在を期待していたが、早くもその期待は破られたようである。中国人はやはりどこにいても賑やかである。 スケッチをしている間にも彼らは塔に上ったり、裏手の丘の上に上ったり、とにかく元気だ。

高密な住空間 高密な住空間

トンネルのような路地 トンネルのような路地

スケッチを終わる頃には村の中にはもう日があたらなくなっていた。それでもまた空も明るいので少し村の中を散策してみる事にした。 歩いてみて早速驚いたのは、村の中の路地の構成である。まるで迷路である。ネパールのカグベニという村でも、 その迷路のような路地空間に驚かされたが、この桃坪はそれ以上である。路地の上に部屋が張り出し、路地がトンネルのようになっている。 場所によっては幅が60センチぐらいしか無いような真っ暗なトンネルもあり、まさかこんな道をだれも通らないだろうと思っていたら、 全然普通に利用されているようである。そしてトンネルを抜け上を見上げてみると、そのトンネルの上に3層もの部屋がのっかっているのである 。つまり住居の高さとしては4階分ぐらいあるということになる。ものすごく高密な集落空間の構成にも驚いてしまった。

手前の塔への入口 手前の塔への入口(赤いのは唐辛子)

歩いているうちに塔のある家の前に出てきた。塔は単独で存在するのではなく、誰かの家の一部として設けられている。 塔に上るには、その塔のある家の中から入っていかなければならない。中に入ってみると、 この家のおじさんがこっちに来いと塔の方に案内してくれる。塔の入口は屋上にあり、入口は低く、狭くなっている。 中には木造のはしごと床で段々上の方に上っていけるようになっており、その途中にはのぞき穴が何ヶ所か設けられている。 一番上はテラスのようになっており、そこから遠くの方まで見渡せるようになっている。それほどの高さではないと思うのだが、 それでも高いところはあまり得意ではないので、足がすくんでしまうのは困ったものだ。

丘の上から見た桃坪 丘の上から見た桃坪

塔を降りたところで、その塔を案内してくれたおじさんのおみやげ物売りが始まった。アクセサリーは買うつもりはなかったが、 桃坪村の写真集があったので、それを買うことにした。

塔に上った後は裏手の丘の上に上ってみることにした。考えてみると僕も結局中国人の学生達と同じルートをたどっていることに気づいた。

宿に戻り少しすると夕食に呼ばれた。学生達は食堂でご飯を食べているが、僕は家族の人達と一緒に囲炉裏を囲んでご飯を 食べさせていただくことになった。総勢7人のその顔ぶれは、おじさん、おばさんとそのおばあさん、娘3人と小さなかわいらしい女の子であり 、おじさんをのぞいて他は全部女性だった。小さな女の子はぷくぷくに着膨れて、まるでオモチャのような動きをする、 とてもかわいらしい女の子だ。この7人で囲炉裏の火を囲んで食事をいただく。

お世話になったご家族 お世話になったご家族

囲炉裏はうまいこと出来ていて、ご飯の時には、囲炉裏を取り囲む鉄製の枠の上に板をかぶせられるようになっていて、 それが食卓に早変わりする。その時には適度に火を落とし、ちょうど暖かいぐらいになるようにしている。寒い夜にはありがたい仕掛けである。 食事は品数が多く、とにかく豪勢だった。度の強いお酒も出されたが、不思議なことに、 おばあさんとおばさんと客人である僕にだけおちょこが用意され、おじさんのところにはおちょこがないところを見ると、 チャン族は女系社会で女性の力の方が強いのだろうか。どことなく食卓の雰囲気もそんな感じがある。 とにかくたくさん食べて、たくさん(?)飲んだ。おかずはどれも文句無く美味かった。

学生達 学生達

夕食が終わって、囲炉裏のそばでくつろいでいると、学生達がやって来た。みんなで火を囲みあれやこれやと話が盛り上がる。 ごくごく簡単な中国語もどきと筆談しか出来ないことがくやしく、僕ももっと中国語がしゃべれたらと思った。 彼らは重慶からやってきた大学生で、総勢10名程度である。大学では環境芸術専攻しているらしい。僕は建築を勉強しているというと、 彼らは安藤忠雄の名前を出してきた。どうやら安藤忠雄は中国でも有名であるらしい。

僕にとってはたらふく(おちょこ3杯)の酒(めちゃくちゃ強い)が効いたらしく、だんだんとその場に座り続けることが苦しくなってきた。 頃合いを見て部屋に戻ると、そのまま眠りについてしまった。驚いたことにこの部屋のベッドはホットカーペット付きである。 寒いこの村では非常に助かる心配りである。

朝、まだ外も薄暗いうちから学生達のがやがやと起き出す音で目が覚めた。一体こんな朝早くから何を騒いでいるのかと思い、 時計を見てみるともう8時前だった。しばらくうとうとしてから意を決し、外に出て中庭の水道で顔を洗った。 蛇口からほとばしり出る水が、氷のように冷たく水をすくう手がジーンとしびれる。

中庭から見た朝の風景 中庭から見た朝の風景

朝靄の中の風景 朝靄の中の風景

彼らとあいさつをかわし、空を見上げてみると、どうやら今日は快晴の雰囲気である。ここへ来て天気が回復しはじめたのが、 何よりもうれしい。そろそろ山の上の方が明るくなりはじめている。8時でもまだ薄暗いと思ったのは、 まわりが高い山に囲まれた深い谷にあるからだった。東の方の山の間がだんだんと明るさを増すとともに、 村の背後の山を照らす面積が広くなっていく。少しもやが出ているため、幻想的な雰囲気である。 集落に日が射すのにはまだ時間がかかりそうだった。

呼ばれて朝食に行くと、また朝食から豪華だった。メニューは稀飯(おかゆ)、に包菜(漬け物)、それに平べったいマントウ、 炒めたピーナッツ、濃い味のおかず1品、ゆで卵2個だった。正しい中国の朝食にほくほくだった。朝からお腹いっぱいになり、 今日は午前中から外をぶらぶらと散歩することにする。

僕はまず、昨日バスから見かけた「桃坪撮影点」に行ってみることにした。川を挟んだ向かい側から桃坪を見ておきたかったのだ。 バスだとあっという間だったが、歩いてみると結構時間がかかる。しかし、行ってみるだけの価値はあったようだ。 外から見る集落には、外から見る集落の良さがあった。外から見ることで、2つの塔はさらに存在感を増し、 背後の山はさらに雄大に見えた。集落にはまだ日が射しておらず、日の光を浴びた背後の山をバックに、 2つの塔の黒いシルエットが浮かび上がっていた。

集落に戻って集落の中を歩いていると、西の方で川にぶつかった。その辺りの雰囲気はネパールのカグベニやゾンという村を 思い出させるものだった。チャン族の集落は、どことなくネパール側のチベットの雰囲気に似ているように感じた。

村の中の路地 村の中の路地

今日は川の近くでいい場所があったので、そこでスケッチすることにした。昨日は日陰でスケッチをし、 えらい目にあったので、今日は日の射す暖かい場所を選んでスケッチすることにした。 あまり人の通らない集落の外れの方だったので、静かにスケッチすることが出来た。時たま通り行く村の人もどちらかというと、 無関心な感じで寂しいぐらいに平和だった。毛むくじゃらのネコだけが、積み上げられたわらのベッドの上で、 眠たげなとろんとした目でこちらを眺めていた。

スケッチの後、宿に戻ると昼ご飯が待っていた。昼飯は焼きめしにスープ、それに炒め物が2品ついてきた。 朝もたらふく食べたが、美味しいので昼もたくさん食べてしまう。 食べ終わって一息ついていると、学生の一人がやってきて、「これから向かい側の山に行くけど、一緒に行かないか?」と誘ってくれた。 ちょうど登ってみたいと思っていたので、その誘いに乗ることにした。

彼らについて山に行くと、先発隊の数人はすでに山の中腹あたりまで行っている。僕らも急いで後を追いかけることにした。 途中筆談を交えてしゃべりながら、えらく急な斜面を登っていく。下から見たときは、とてもこんな急な斜面は登れないと思ったが、 実際登ってみると、意外に登れるものだった。最初、僕があの辺りまで登るのかなと思っていた所よりも、 大分上の方まで彼らは登るつもりのようである。先発隊はすでにそこに到着しているようである。 こうなったら最後まで一緒に行ってみようと思い、僕も彼らの後をついていった。

さすがに高い山から見下ろす集落の姿は圧巻だった。高ければ高いほど風景は雄大になり、これまで見えなかった風景が見えてきた。 集落があるのは山のふもとだけではなく、そのはるか上方にも集落が点在しているのが分かった。 むしろ山の上にある集落の方が多いくらいである。ここから見渡せるだけでも3から4の集落が点在している事に驚いた。 何故あんな険しい山の斜面に集落を築いているのだろうか。ふもとの道から、たどり着くだけでも半日はかかりそうである。 山の急峻な斜面には、まさにネコの額と呼ぶにふさわしい程に狭い段々畑が切り開かれていた。 それらの集落に至る道は山の斜面にくっきりと浮かび上がっていたが、こちらから見ているととても人の登れる道とは思えないほど 険しい道に見えた。そのような道が各集落と畑を結ぶようにいくつもつくられている。その光景は、木のほとんど生えていない荒涼とした 斜面の上に描かれた芸術のようにも見えた。まったく人の力とはすごいものだとあらためて知らされた。 長い時間をかけて積み上げてこられた人の手の歴史をその風景の中に見ることが出来た。

しかし、その場所で終わりだと思っていた僕の考えは少し甘かったようだ。「ティエン・ゾン・ツォウ・イー」 (田中周一の中国語読み)と呼ばれて、おきまりの集合写真を撮った後、彼らはさらに上へ行こうと言った。 さすがに元気が有り余っている大学生達である。こうなったら行くところまで行こうと、腹を決めてついていった。 学生達の何人かはここで脱落したが、登っている途中も彼らは賑やかである。

少し長いこと一緒にいると、ただ賑やかなだけの中国人の中にも、それぞれ個性が少しずつ見えてくるようになる。 リーダー格の男は僕を最初に山に誘ってくれた男だ。もっと上に行こうと言いだしたのもこの男だった。 それに少しダンディーなキャラクターを気取っているひげ面の男。中国人にしては口数が少なくておとなしい男。 何にでも興味を示して、我が道を行くというタイプの調子乗りの男。こいつは特に植物に興味が深いようで、 途中に生えている雑草をつまんでは、これは○○だ、あれは××だ、といろいろ教えてくれる。よくしゃべるがあまり目立たない男。 いろいろと僕を気遣ってくれるちょっとやさしそうな男。とにかく良くしゃべる、まるで関西人みたいな女。 先生みたいな雰囲気で落ち着いた女、等々みんな個性があって面白い。

みんな元気だと思っていたが、どちらかというと一部の元気な奴らが強引にみんなを引っ張っていくという感じだった。

山の上で記念撮影 山の上で記念撮影

結局高度1800mあたりまで最終的に登った。宿の辺りが1400mぐらいだったので400m登ったことになる。 いやはやかなり疲れた。山の上の方では水面は氷り、雪がかすかに残っていた。急な斜面だったが、 下りは意外なほど簡単に下まで降りることが出来た。宿に帰り着いた時にはすでに7時前だった。

宿に帰ってからも彼らにミカンをもらったり、一緒に夕食を食べたり、楽しく過ごすことが出来た。面白かったのは夕食の時で、 トークもマシンガンならご飯の食べ方もまた凄まじく激しかった。こんなに賑やかな夕食は初めてだ。 彼らのいかにも中国人らしい食べっぷりはあっぱれだった。夕食の後は明日の移動に備えて、部屋でゆっくり休むことにしたが、 彼らはまだまだ元気が有り余っているようで、信じられないぐらいやかましく騒いでいた。賑やかな夜は延々と続く。

夜中、トイレに行くついでにまた屋上に上って、少し星空を眺めていた。夜空には半月が浮かんでいる。 人工の明かりが極端に少ないので、月の明かりがすごく明るく見える。月明かりの中に浮かび上がる2つの塔や集落の様子に、 古の羌族の集落の様子を少しだけ垣間見たような気がした。

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